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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第3節 湖面の細波 [7]




「美鶴がついてきてくれると心強いなって思ってたんだ。でもさ、こっちの都合に付き合わせるのも悪いなとも思っててさ」
 ようは、ついてきて欲しいとは思っていたんだろう?
 心内で突っ込みながらも一切言葉にはせず、適当にツバサにしゃべらせ、待ち合わせ場所を決めて電話を切った。
 私って、バカだ。
 電話を切った後、美鶴はしばらく携帯を見つめていた。
 どうして滋賀に行くなどと言ってしまったのだろう? 霞流さんの事が諦められないから? それとも、単なる好奇心。
 携帯から目を逸らし、部屋を見渡す。
 今朝、目が覚めた時には、世界中で自分が一番不幸だと思っていた。
 ふ… 不幸である事に代わりはないさ。
 などと変な言い訳を心内で呟き、目を閉じる。
 あぁ、そう言えば、昨日はここに、瑠駆真が居たんだな。

「君を、幸せにしてあげる」

 囁くような甘い声。
 幸せ。私の幸せって、何だろう?
 腹の底で、緑の異物がモソリと動いたような気がした。目の前に現れるのは、無限の何か。離れたはずの場所に、再び戻ってきた自分。
 他人など―――
 澤村に振られた時にそう思って他者には背を向けたはずの自分が、再び、今度は別の男に振られてしまった。
 自分は、こうやって同じところをグルグル廻り続けるのだろうか?
 美鶴は、携帯の履歴を操作した。相手は三コールで出た。
「美鶴ちゃん?」
「はい、智論さんですか?」
「えぇ、そうだけど、どうしたの? 何かあったの?」
 智論の柔らかな問いかけに、美鶴は息を吸った。
 自分を霞流さんから引き離そうとしている。許婚などは単なる形式だなどと言いながら、それでもやっぱり引き離そうとしている。
 そんな疑念も渦巻き、その柔らかさを素直に受け取ることができぬまま、美鶴は小さく息を吐いた。
「明日、ツバサと一緒に会いに行きます」
「え?」
 ワケがわからず困惑する智論へ、美鶴は言葉を重ねる。
「霞流さんの事、もっと教えていただけませんか?」
 智論は、しばらく何も言えなかった。





「あははっ あの石段を降りたのかぁ」
 オレンジジュースを半分ほど一気に吸い上げるツバサと美鶴を目の前に、智論は声をあげて笑った。
 琵琶湖を見下ろせるレストランの窓際。平日だからか、お昼時も過ぎたしそれほど混雑はしていない。さきほど中年女性の集団が、併設されているお土産コーナーで賑やかな声を出していた。だが、シャトルバスの到着と共に喧騒も去っていった。
横川(よかわ)の一番奥だっけ。あそこの石段を休まず登ってこれるなんて、さすが若いねぇ」
「あんな石段だってわかってたら、最初から行ってませんよ」
 ストローから口を離し、フーと息を吐くツバサ。
「だって、パンフレットにはなんか有名なお坊さん(ゆかり)の場所だって書いてあったから、せっかくだから行ってみようと思って」
 社会の教科書で習った事のある僧侶が修行をした場所だと書いてあった。僧侶にも修行にも興味はないが、聞いたことのある名前が出てくるとなんとなく行ってみたくなるのが、人間の悲しい(さが)なのだ。
「行きは下りの階段だったんだけど、それが延々続いてるからだんだん怖くなってきましたよ。帰りはこれを登らなきゃならないんだって思って」
 実際、登るハメに陥ったワケだし。
「それに、やっとの事でたどり着いた場所には大したものはなかったし」
「所詮は修行した道場か何かの跡じゃなかったかしら。期待外れで残念だったわね」
 智論の言葉にツバサがブゥッと膨れる。その顔に、智論はまた笑った。
 可愛い人だな。
 美鶴は黙って二人のやり取りを見ていた。
 こうして智論とじっくり面と向かい合うのは初めてだろうか? 昨日、霞流邸ではマトモに顔を見れる心境ではなかった。
 ふんわりと、優しい香りが揺れる。
 昨日とは違う香りだな。
 ぼんやりと眺めていると、突然智論と目が合ってしまった。なぜだか視線を外し、ストローを咥える。
 どのような顔をして会えばよいのかわからない。そのような事を言っていたワリには、ツバサはあっさり智論と仲良くなっている。まるで美鶴の方が初対面であるかのようだ。
 初対面、みたいなもんだよな。
 視線を定めるアテもなく、窓から外を見渡す。天気は悪くはないが、澄み渡るほどの視界でもない。空気が澄んでいれば遠くの山々までハッキリ見えると、乗ってきたケーブルカーの中で案内していた。今は、薄っすらと白く微かに輪郭が確認できる程度。
 冬にでもなれば、もっと綺麗な景色が見えるのだろうか? だが、冬になればきっとすごく寒くなるんだろうな。
 いつの間にかぼんやりとそんな事を考えているうちに、ツバサと智論の会話に小さな間が出来たようだった。それをよいタイミングと考えたのか、ツバサが少し声のトーンを落として改まる。
「それで、あの、兄の事、なんですけれど」
 兄、という言葉に、美鶴は我に返る。瞬き、手を添えていたオレンジジュースのグラスを少し押し退け、軽く腰を浮かせた。







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